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杉田です。あいてしまいましたが、やらなきゃいけないことについて虎視タンタンと(?)準備中です。遅さに居直るのはよくないけど、不用意に焦って自爆しても仕方ない。
柳瀬さん、面白い情報をどうも。
最近は殆ど新しい読書をしていませんが、久々に読んだ北田暁大の『嗤う日本の「ナショナリズム」』はよかったです。
北田さんはたぶん、どこかでドストエフスキーの小説が現実に出てきたような人物(善か悪か?わからないけどとにかくすごい)と継続的な議論=論争をくりひろげ、ぼろぼろに疲れきった、そして見かけの対話が終ったあとにこそ内的な対話が始まり混乱を深め続けていく、という経験をくぐったんじゃないかなという気がする。
たとえば本書第1章の連合赤軍の分析や、『責任と正義』の責任論、からそれを感じた。
つまりこの本の骨格は、メタ/ベタをめぐる循環論じゃなく、連合赤軍をリミットとする《革命的男性集団の対話主義》への批判、そして田中美津などに触れその空間から見失われていくものの摘出、つまり《対話的な空間》の問題(の批判)にあるんじゃないか。そう感じた。
それはたんに、対話や運動に疲れたひとが身体論/エコロジー/福祉などへよりどころを見出す、という話だけでは終らない気がする…。
北田さんのメタ/ベタの循環論は、切り口は新味があるけど社会学(システム論)系のよくある話で、例えば大澤真幸のそれとそんなに変らない。ベタ→メタ→イロニー→リミット→ベタ……。ってやつ。
でもひとは自分の思い通りに「メタ」になんて立てないし、殆どの場合は外側から強いられてそうなるわけで(柄谷行人のロマン派批判)、メタを装っているつもりがベタになって、ベタで何かをやっているつもりがメタになって……というパターンは、単なる人間が生きるための条件であって、それ自体がどうということはない。「あえて=メタに」何かを信じるのはいいけど、「ベタに=本気で」何かを信じるのはダメだ、という1980年代的倫理観が、それだけでは弱い、なぜならメタは常にベタに転落してしまうから、その循環構造を破砕する何かがなければ全然ダメだ(天皇を「あえて」信じる、日本国憲法を「あえて」信じる、といっても何にもならない)、という単純な事実を指摘したことは、北田さんの状況認識として正しいのかもしれないけれど。
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