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皆さま
今年もよろしくお願いします・・・。
>松井さん、ワタリさん
お二人の議論を読み、考えさせられました。
ぼくが「しかし、なぜフリーター階層の人々は互いに「連帯」しにくいのか。意識も相変わらずバラバラなのか」と書いたのは、議論の立て方がオカシかった気がします(ただ、ごくごく素朴な部分で、そういう素朴な問いの立て方が必要だ、とも感じます)。
抽象的な話じゃなくて、周囲の身近な友人のことも含め、今の自分にはすごく切実な話ではあるんですが、どうしていいのかわからない部分がある。
まだ具体案(アイディア)は自分の中で固まっていないけれど、少し前に書いた「フリーター・テーゼ」の中の一文を部分的に修正した形で貼りつけるので、皆さんの議論へのお返事(の助走)とさせて下さい。もとの文章が形式上すごく抽象的な文章なので、わかりにくい文面になっていますが・・・(この辺も改善して行きたいです)。
【●現在の若年フリーター集団の多くは、他のマイノリティ集団(例えば外国人労働者/障害者/野宿者/……)たちの生活と存在から遠く離れ、断絶し、孤立している(ように見える)。
それだけではない。一つのフリーター「階層」としての自覚や認識を当事者達がはっきりと共有することも少なく、実質的に同じ層に属するにも関わらず、個々人が互いに曖昧に切り離され、孤立した生存を続けている。少なくとも、そういう光景をしばしば見る。いや、正確に言うと、真の意味での「個人」に成るチャンスを逃し、漠然と群れを作り癒着し、行政や識者やメディアから《フリーター》と名付けられカテゴライズされ、その中で入り乱れるだけにとどまっている。しかし、常識と逆に、他者との持続的なネットワーク化と連合の先に、そこでようやく、真の「個人」は社会の中に生れるのではないか。単独者として地に足をつけて立つことは難しい、実はひどく難しい、今も昔も。自分達が現に生きる「階層」の自覚的認識は、外から(学者やら研究者によって)与えられるものではない。そうであってはならない。自分たちの手で発見され、勝ち取られる。しかもその「階層」の認識自体が、現実の多元的な動きの中で、また現に生きる人々の本当の多様性に直面して、次々と変更され、書き換えられていく。それらのていねいな手続きや作業の尖端で、フリーターの現状が、やがてアクティブな「変革」のポテンシャルを点火する。外側から軽蔑的に拿捕された「フリーター」ではなく、自分たちの独力で再定義され、認識され直した自発的な《フリーター》(フリー労働者)へと転化すべきだと考える。必要なのは、不平不満でなく仮借なき現状の認識であり、空論や要望ではなく生産的な実践であり、曖昧な癒着/曖昧な孤立ではなくネットワーク状の連合ではないか。逆に考えれば、《フリーター》とは、若年非正規雇用者が、自分(達)以外の底辺・周辺労働層の生の問題を考えるための、融通無碍な「枠」のようなものなのかも知れない。】
それから、ワタリさんがフリーターズ・フリー掲示板の方で書かれた「そういう話はだいたい東京中心、金持ち中心、高学歴中心等のバイアスもかかりがちだ」という言葉は、ワタリさんだけじゃなく別の人々からも似た言葉を受け取ったことがあるし、以前から考えている点でもあるのですが、真剣に腹で受け止めなきゃいけない批判の槍だと思いました。この言葉は文脈的に僕に向けて書かれたものではないけど・・・僕は東京出身ではなく「川崎のチベット」と言われる郊外の出身だし、ミドルクラスの子供だし、学歴も文系大学院へ行ったので微妙だけどあって、それも含め、たとえば真の僻地の出身ではないし、真の貧乏も経験していないし、中卒者や高卒者の就職難の苦痛も知らない。この誤差はちゃんと踏まえないといけない・・・。
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