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(無題)

 投稿者:yanase@taichnug  投稿日:2005年 1月 1日(土)23時50分42秒
  杉田さん

今年もよろしくお願いします。今年の飛躍を期待しております。

松井さん

今年もよろしくお願いします。
ご感想長くなりそうならばメールでお願いします。

今年私は年男です。
 

(無題)

 投稿者:杉田  投稿日:2005年 1月 1日(土)22時14分5秒
   皆さま
 今年もよろしくお願いします・・・。


 >松井さん、ワタリさん

 お二人の議論を読み、考えさせられました。
 ぼくが「しかし、なぜフリーター階層の人々は互いに「連帯」しにくいのか。意識も相変わらずバラバラなのか」と書いたのは、議論の立て方がオカシかった気がします(ただ、ごくごく素朴な部分で、そういう素朴な問いの立て方が必要だ、とも感じます)。
 抽象的な話じゃなくて、周囲の身近な友人のことも含め、今の自分にはすごく切実な話ではあるんですが、どうしていいのかわからない部分がある。
 まだ具体案(アイディア)は自分の中で固まっていないけれど、少し前に書いた「フリーター・テーゼ」の中の一文を部分的に修正した形で貼りつけるので、皆さんの議論へのお返事(の助走)とさせて下さい。もとの文章が形式上すごく抽象的な文章なので、わかりにくい文面になっていますが・・・(この辺も改善して行きたいです)。
 
 【●現在の若年フリーター集団の多くは、他のマイノリティ集団(例えば外国人労働者/障害者/野宿者/……)たちの生活と存在から遠く離れ、断絶し、孤立している(ように見える)。
 それだけではない。一つのフリーター「階層」としての自覚や認識を当事者達がはっきりと共有することも少なく、実質的に同じ層に属するにも関わらず、個々人が互いに曖昧に切り離され、孤立した生存を続けている。少なくとも、そういう光景をしばしば見る。いや、正確に言うと、真の意味での「個人」に成るチャンスを逃し、漠然と群れを作り癒着し、行政や識者やメディアから《フリーター》と名付けられカテゴライズされ、その中で入り乱れるだけにとどまっている。しかし、常識と逆に、他者との持続的なネットワーク化と連合の先に、そこでようやく、真の「個人」は社会の中に生れるのではないか。単独者として地に足をつけて立つことは難しい、実はひどく難しい、今も昔も。自分達が現に生きる「階層」の自覚的認識は、外から(学者やら研究者によって)与えられるものではない。そうであってはならない。自分たちの手で発見され、勝ち取られる。しかもその「階層」の認識自体が、現実の多元的な動きの中で、また現に生きる人々の本当の多様性に直面して、次々と変更され、書き換えられていく。それらのていねいな手続きや作業の尖端で、フリーターの現状が、やがてアクティブな「変革」のポテンシャルを点火する。外側から軽蔑的に拿捕された「フリーター」ではなく、自分たちの独力で再定義され、認識され直した自発的な《フリーター》(フリー労働者)へと転化すべきだと考える。必要なのは、不平不満でなく仮借なき現状の認識であり、空論や要望ではなく生産的な実践であり、曖昧な癒着/曖昧な孤立ではなくネットワーク状の連合ではないか。逆に考えれば、《フリーター》とは、若年非正規雇用者が、自分(達)以外の底辺・周辺労働層の生の問題を考えるための、融通無碍な「枠」のようなものなのかも知れない。】

 それから、ワタリさんがフリーターズ・フリー掲示板の方で書かれた「そういう話はだいたい東京中心、金持ち中心、高学歴中心等のバイアスもかかりがちだ」という言葉は、ワタリさんだけじゃなく別の人々からも似た言葉を受け取ったことがあるし、以前から考えている点でもあるのですが、真剣に腹で受け止めなきゃいけない批判の槍だと思いました。この言葉は文脈的に僕に向けて書かれたものではないけど・・・僕は東京出身ではなく「川崎のチベット」と言われる郊外の出身だし、ミドルクラスの子供だし、学歴も文系大学院へ行ったので微妙だけどあって、それも含め、たとえば真の僻地の出身ではないし、真の貧乏も経験していないし、中卒者や高卒者の就職難の苦痛も知らない。この誤差はちゃんと踏まえないといけない・・・。
 
 
 

挨拶

 投稿者:松井  投稿日:2005年 1月 1日(土)20時59分49秒
   あけましておめでとうございます。

>ワタリさん

 真摯で率直なご意見の表明に、いろいろ考えさせられるところがありました。
 ワタリさんが私の立場や意見に疑念・異論をお持ちであることは、私なりに受け止めたいと思います。私のほうでも議論を深めていく必要を感じますが、お互いの議論を噛み合わせるためにはおそらく長いプロセスが必要になるでしょう。.ワタリさんの問題提起や主張を私なりに咀嚼し、お互いのためになる議論ができると思えるようになるまで、まだ時間がかかりそうです。今後もワタリさんのブログや書き込みを読んで参考にさせていただきます。

>柳瀬さん

 ご丁寧な挨拶のメールありがとうございました。
 私の兄もアフリカのモザンビークにいますが、異国の地での勤務や生活がどういうものか、私には想像もつきません。自分の世界の狭さを痛感します。
 痛ましい出来事が続くご時世ですが、柳瀬さんや杉田さん、早谷さんやワタリさんのように、自ら一歩を踏み出そうとしておられる方たちがいることに勇気づけられます。
 ご研究のほう、何が飛び出すか、興味津々ですね。
 内海健『分裂病の消滅』、保田與重郎『絶対平和論』『ヱルテルは何故死んだか』を先日読みました。機会があればまた、ご意見を伺うことができればと思います。

 今年が良い一年でありますように。
 

若干フライングです

 投稿者:yanase@taichnug  投稿日:2004年12月31日(金)23時40分58秒
  ごかんべんください。  

新年快楽

 投稿者:yanase@taichnug  投稿日:2004年12月31日(金)23時24分59秒
  あけましておめでとうございます。ことしもよろしくおねがいします。  

追記2

 投稿者:ワタリ  投稿日:2004年12月31日(金)15時05分50秒
  長くなってごめんなさい。今度はひきこもりについて。

 「引きこもり」というのは個人のライフスタイルを取り締まる意図をはらんだネオリベラル勢力が流布した言葉だと思っています。
 J・オーウェルが「1984」で有名にしたタームを使えば「ニュー・スピーク」です。たとえば、彼が「1984」で描いた全体主義国家においては、自由や平等といった語は「クライム・シンク(思想犯罪)」と呼ばれました。それと同じにおいをわたしは「引きこもり」やNEETにかいだのです。「引きこもり」はライフスタイル犯罪といったところでしょうか。
 Neetは、かつて全体主義的な国家や団体が、できるかぎり単純化した語を用いて自分たちの恐ろしさをカモフラージュした語法と同じでしょう。オーウエルは、Nazi(ナチ:国家社会主義ドイツ労働者党)、Comintern(コミンテルン:共産主義インターナショナル)Ajitprot(アジプロ:アジテーション)などを全体主義が好む人を思考不能にする用語としてとりあげています。(オーウエルの「1984」ハヤカワ文庫1972.2000のうち[付録・ニュースピークの諸原理]P.P.303−409)
話を現代日本に戻しましょう。昔風に言えば「主義者」とか「キチガイ」を弾圧できなくなった。ならばその替わりにひきこもりを叩いて国民の統合性を保ち、アノミー状態に歯止めをかけようということなのではないでしょうか?
そもそも引きこもりというのは定義もイメージもよくわかりません。なんとなく悪いイメージがメディアによってあおられているのは事実です。松田さんはどういうニュアンスで引きこもりをとらえておいでなのですか? 
 ちなみに、この分野の基本書と言われるPHP新書「社会的ひきこもり」を上梓し、TVに頻繁に出演している斉藤環という医者は、精神医学界において「意味や意図がわかりにくい」と叩かれています。塩蔵裕というジャーナリストが指摘しているのですが、彼はひきこもりの統計についてデータ捏造の疑惑もあります。
 また、彼の師匠の稲村博ーー学生運動をおさえるために右翼を集めてつくられた筑波大学医学部のーーは、登校拒否または不登校の子どもにだましたうえでの強制入院をさせ、ハロペリドールという副作用の強い精神分裂病用の薬を投与した犯人です。のちに学会のリベラル派が調査したところ、そういった治療を受けなかった人のほうが予後がよかったそうです。さらに、斉藤の兄弟子の小田晋は、熱心な予防拘禁論者です。こういう徒弟制の社会では、師匠や兄弟子の影響は甚大です。もうひとつ言うと、彼への批判者である児童精神科医高岡健は、ネオリベ批判論者です。そういうバックグラウンドを持った人の主張を真に受ける必要があるのでしょうか?  
 比較的リベラルな定義として、ひきこもりを家や部屋から出ようとしても出られない状態で本人が苦痛に悩む状態だとしましょう。それが「極端な個人化」というのは何ですか? 人口全体で見れば統計的には誤差にすぎない数値内の人たちの、人生のなかの一時のプライベートな様子を見て、社会や文化全体の傾向を図れるものか否か、わたしは懐疑的ですが、松井さんはどうですか? 個人主義者がみな部屋や家から出ないわけではないですよ。わたしは日本のなかではけっこうな個人主義者です。だけれども、外出はしますよ。なにか、そのへんのところが、失礼ですが不安をあおる報道に踊らされているというか、混乱があると思うのですが、どうでしょうか?
 
 

 

追記

 投稿者:ワタリ  投稿日:2004年12月31日(金)15時03分27秒
   松井さん、レスをありがとうございます。
 松井さんのお立場は分かりました。あなたのかみくだいた説明によって、誤解は解けました。

 それから、フリーターどうしが連帯できない理由について。(これは、改めてワタリのブログにもエントリーすることを、来年の予定にしましょうか。もっと詳しく説明したほうがよさそうなので。)
 それは個人主義化ではなく、人生途上の「階層脱落(ブルデュー)」によるものです。わたしのブログにもトクヴィルからの引用の形で書いたのですが、身分や階層が違うと、「住む世界が違う」のです。それで、お互いがお互いのことを同じ人間のように感じられなくなるわけです。個人的には優しくて柔軟な人であってもその傾向はあるのです。(ただし、宿命ではありません。)
 つまり、昨日までは中産階級だった。ところが今日は下層になっている。けれど、そのことははっきりとは分からない。ブラジル出身の識字教育家パウロ・フレイレによれば、「意識化」できない。それで、自分よりも上の中産階級(たとえば正社員、総合職など)に親しみを持つ。そういう人と友達や恋人になりたいと願う。しかし、相手からは同じ仲間だとみなされにくい。つまり自らの階層移動ゆえに、フリーターは同じ生活レベルの他人を見ると、まず無意識的に自分よりも下だとか、社会的に恥ずかしいから関わりたくないと考えてしまうのです。自分もまた正社員・アルバイトの大半からすれば同じように見られているにもかかららず、です。
 そもそも、そういった正社員中心の問いの立て方って何? という思いはあります。正社員なら模範的に連帯していて、フリーターはムラ社会のメンバーじゃないからダメなんですか?
 結局、みないっしょにさせようとするからそんなおかしなことになるのじゃないですか? 正社員だって、リストラされても同僚と個人的なつきあいは残るとか、家族や友人や地域コミュニティのなかで居場所があり、そういう中で再就職先を見つけて……なんて人は、ごく一部ではないのですか? 高度成長期型ムラ社会たる会社や学校とは、相互扶助がないのにあたかもあるような顔をしていただけではなかったのでしょうか?  


 

補足

 投稿者:松井  投稿日:2004年12月31日(金)11時44分38秒
   私はもう一つの掲示板で、「教育や訓練、統治や指導は、正当かつ必要な「抑圧」を伴うものだ」と書いているので、「強制」肯定論者と受け取られたのかもしれませんね。これは、限定付きでイエスです。私はとりあえず(最近やっている)新人のバイトの「指導」を念頭に置いていたのですが、仕事の課題とルールを教え、彼がどうしていいか「わからない」場合、あるいは「違ったことをやっている」場合に、「こうしなさい」と強制するのは「正当かつ必要な」指導だと思っています。それが「抑圧移譲」かどうかは、そこに私の「恣意」による「圧迫」が含まれているか否かで判断される。とりあえず私は、新人のバイトが「自分で判断して仕事ができる」ようにすることを心掛けて、指導しているつもりです。逆に、私が他の人から指導されることもありますが、それが適切な内容であれば、不当な抑圧感は生じない(相手がダブルスタンダードだったりすると、かなりムカツキますが)。「集団生活の規則の強制」ということを、私はそういう風に理解しています。  

ワタリさんへ

 投稿者:松井  投稿日:2004年12月31日(金)10時35分51秒
   私の書き込みに言及していただき、ありがとうございます。
 とりあえず、やや誤解があるようなので、説明します。

>わたしは逆の考えです。家庭も学校ももっと個人化したほうがいい。

 私も各人が自由な判断と決定を下す個人である(べき)ことを前提にしています。個人を強制して集団行動をとらせることには私も猜疑と嫌悪を抱きます(私は結構シニカルな個人主義者ですから)。だから、ワタリさんと「逆の考え」だとは思わないです。
 ただ、「個人化」の極端な形が「ひきこもり」という形をとるとすれば、それは出口のない行き詰まりの道かもしれません。互いに孤立し分離した諸個人がいかにして社会−家庭・学校・会社等を含む−を形成することができるのかという「課題」がそこから出てくる。
 私が「共通の課題をもって行動をともにする」と言うのは、「個人が自由に学習課題や人づきあいを選べること」を前提にして、そこから協力や連帯の関係が生まれるためには、自分で見出した課題が他人の課題と「共通」していることを発見し、各人が自分の意志と判断で「行動をともにする」ことを選ぶというプロセスが必要なのではないかということです(「行動をともにする」ことには、たとえば「署名する」ことも含まれる)。「共通の課題」は各人が発見すべきものであり、上から強制されるべきものではない。

>それで、目の前の別のフリーターに、尊敬どころか親しみも仲間意識も持てないのです。

 「個人化」のネガティヴで深刻な側面がこういう事態だとすれば(私の職場にもこういう傾向がありますが)、「個人の自由によってつちかわれた孤独への強さ」に頼るだけでは、目の前の別の個人とコミュニケーションを図ることは難しいのではないでしょうか。別に「仲良くしたい」ということではなくて、そこに相手がいるのに「話すことが何もない」というのは不自然で憂鬱です(私も飼い猫がいなければ、家族と話すことがあまりない)。だからせめて、「共通の課題」(仕事であれ猫の世話であれ)に関しては相手と協力しあう関係を作りたいと思う。あとは私は私の好きなようにするし、相手も好きにすればいい。それが私の言う「連帯」の意味です。

 それでは、みなさん、良いお年を(当地・下関は今日はみぞれ混じりの雨で、明日は雪になりそうです。私は正月も仕事です。正月気分も全然ないけれど)。
 

すみません

 投稿者:ワタリ  投稿日:2004年12月31日(金)02時45分50秒
  リンクを貼ったつもりが出ませんでした。もう一度。
↓ 内藤朝雄のHP
http://web.archive.org/web/20011222160727/park.itc.u-tokyo.ac.jp/kiss-sr/~naito/default.htm

長くなって、連続投稿もして、すみません。
 

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